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自己紹介 その19

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チャンピオンになると交友関係も大きく変わった。
紹介される人の中には業界に顔の利く人も多くいた。

2度目の王座陥落をした頃ある方が私を気にかけてくれてこう聞いてくれた。
「これからどうするつもりなんだ?」
正直そのときはまだボクシング以外に何かできることを見つけられていなかった。

返答に詰まっているとふいにこう言われた。

「K-1やってみないか?」

驚いた。
憧れていた舞台ずっとテレビで悔しさを噛みしめながら見ていたK-1。
「やれるんですか?」と聞くと「知り合いが運営にいるから紹介するよ」と。
その言葉にもう迷いはなかった。

だが当時のボクシング界は今と違って“鎖国状態”のような閉鎖的な環境だった。
海外から来たスポーツのはずなのに国内では外の世界に触れることが“裏切り者”のように扱われることもあった。

案の定当時所属していたジムの会長からはこう告げられた。
「K-1へ行くなら二度とジムの敷居はまたがせない。」

必死に防衛を重ねても世界挑戦は叶わず目標も見えないままモチベーションは底を打っていた。
そんな状態だったからこそボクシングに対する未練はその時一切なかった。

あの頃はとにかく可能性が感じられる場所に進みたかった。
様々なリングで戦ってきた今でこそ「ボクシングが一番好きだ」と思える。

そして2005年6月ボクシングで日本ミドル級タイトルマッチに出場していたにも関わらずわずか4ヶ月後の10月にはK-1のリングに立っていた。

あまりのスピード展開だと思う。
このあたりの話はもうだいぶ擦れられてるので興味があればYouTubeをご覧ください。

だがK-1で思うような結果は出せなかった。
ここからが私の“暗黒時代”の始まりだった。

当時はまだSNSが今ほど普及しておらずその代わり「2ちゃんねる」が全盛期。
そこで誹謗中傷の嵐を受けた。
たくさんのスレッドが立ち匿名の言葉が心を深くえぐった。

人間不信になり「死にたい」と思った日も正直一度や二度ではなかった。

それでも心の奥には怒りが渦巻いていた。
周囲への怒り以上に自分への怒りだ。

「ふざけんな。絶対に勝つまで辞めねぇぞ!」

その気持ちだけで挑み続けた。

K-1のリングでは勝つ事ができずなのでなかなか試合のチャンスも与えてもらえなかった。
年に1試合。
しかも相手は世界トップクラスの選手ばかり。

練習だけしてても実戦経験がなければ勝てるわけがないのでK-1との契約を解除しフリーとなった。

すると翌年キックボクシングのリングで待望の初勝利を手にした。
そこから少しずつ勝てるようになっていった。

そんな中声をかけてくれたのが「シュートボクシング」だった。
勝利を求め勝っても負けても全力でがむしゃらに戦う姿を評価してくれて毎大会オファーをくれた。

そしてもがき続けたその舞台でついに「シュートボクシング日本スーパーウェルター級チャンピオン」に輝いた。

格闘家として生き返らせてくれたシュートボクシングには本当に感謝している。

そしてこの時ずっと胸に秘めていた“野望”を果たすチャンスがやってきた。

それは
「二度と敷居をまたぐな」と言い放ったあのボクシングジムの会長に
「俺はキックでも結果を出したぞ」と見せつけ申し訳なかったと頭を下げさせる事であった。

タイトル獲得の翌日。
ベルトを手に意気揚々とジムへ向かった。

外から会長の姿を見つけると会長もこちらに気づきゆっくりと歩いてきた。
私は胸の中でこれまでの想いを詰め込んだ言葉を準備していた。

だが

「…よくやった」

たった一言。
その一言にあまりにあっけなく力が抜けた。
拍子抜けした。

私がキックボクシングを続けていたことやタイトルを獲得したことなど知らないと思い情報が広まる前に自分の口で報告しようと思っていたのに会長はもう全部知っていた。

「ベルトを叩きつけてやる」くらいの勢いで臨んだのだが気づけばベルトをそっと手渡していた。
そしてそのまま何事もなかったかのように二人でジムの敷居をまたいだ。

荒々しく雪崩のような再会になるかと思いきやそれはまるで春の訪れのように静かで穏やかな“雪解け”だった。

続く

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