その4はこちら
簡単な自己紹介をするつもりだったのだがなんだか物語になってきてしまった・・・
ここまで来て中途半端に終わるのも気持ちが悪いので満足のいくところまで書き上げたい。
最後までぜひお付き合い下さい。
デビュー戦を終えてまたいつもの日常に戻った。
仕事とジムでのトレーニングが繰り返される日々。
次の試合が決まるのを待ちながら決まった試合に勝つためにひたすら鍛錬。
そういえば前回の試合の体重についてはあまり触れていなかったな。
デビュー戦はミドル級(72.5kg)で行ったのだが実は減量は全くせず普通にハードなトレーニングをしていたら71kg前後になっていた。
なので計量の時にはスウェットを履いて秤に乗ったような記憶がある。
どうしてそこまでミドル級にこだわったのかというと理由は2つあった。
まずは今後狙うことになる「新人王トーナメント」ではミドル級の1つ下の階級スーパーウェルター級(69.8kg以下)がないのでウェルター級(66.6kg以下)まで落とさなければならなかったことが1つ。
少し頑張ればウェルター級までは減量できると思ったが1980年代にアメリカで活躍していた世界ミドル級チャンピオンのマービン・ハグラーに憧れていたためミドル級で戦いたいというこだわりもあったのがもう1つ。
その後ハグラーとも激闘を繰り広げウェルター級からライトヘビー級まで5階級を制覇したトーマス・ハーンズに憧れ彼のファイトスタイルを真似て左手を下げて構える「デトロイトスタイル」で戦うことに。
そして「和製ハーンズ」と呼ばれることになるとは当時はまだ知る由もない。
そしてついにプロ2戦目が決定!
新人王トーナメントにもエントリーしていたのでこれはトーナメント初戦にもなる。
デビュー戦を辛くも勝利しせっかく始まった人生逆転への道をここでつまずくわけにはいかない。
新人ボクサーの「登竜門」とも言える新人王を逃すわけにはいかないという強い思いを胸にひたすらトレーニングに励んだ。
試合前日相手のジムの興行ということで仙台の会場での試合となった。
前日に新幹線で仙台まで行きそのまま計量会場へ向かって計量をクリア。
体重も問題なく食事を済ませてホテルへ戻った。
仙台は初めての土地で右も左もわからないから遊びに行こうという誘惑もなかった。
ただあったとしても当時の私には試合前日に遊びに行く余裕なんて微塵もなかった。
そして試合当日。
相手は私よりも試合数が多かったと思うが前回同様そこは気にせず腹を括って試合に臨んだ。
試合内容は1ラウンド終始私のペースだった記憶がある。
だが心の中で不安が渦巻いていた。
私の最大の武器である「右ストレート」を何度かクリーンヒットさせていたのに相手は全然倒れず前へ前へと突進してくることだ。
デビュー戦でも右ストレートでダウンを奪っただけにその状況に焦りが募った。
1ラウンドが終わり自分のコーナーに戻ってセコンドと話しているときに「倒れない…」と漏らしていたことを覚えている。
そして第2ラウンドが始まった。
右ストレートを当てても倒れないという不安は消えないがならば倒れるまで何度でも打ち込んでやる!と覚悟を決めてコーナーを飛び出した。
1ラウンド同様私のペースで試合が進行。
しかしここでアクシデントが発生。
1ラウンドから繰り返し行っていたジャブからの右ストレート。
2ラウンドも同じように攻撃を仕掛けた瞬間右拳に激痛が走った。
今まで試合でもスパーリングでも何度も打ってきたのになんなら学生時代のケンカでも素手で相手を殴っていたのにこの痛みは初めてだ。
私はその初体験の激痛に「この激痛では右は使えない」「右をさんざん当てたのに倒せないのだからもう勝つ手段がない」と心が折れ闘志を失った。
攻撃の手が出なくなった私に対して相手は勝機と感じたのだろう。
距離を詰めて猛ラッシュを仕掛けてきた。
私はガードを固めていたがガード越しに後退し背中がロープに当たった。
普段なら相手と体を入れ替えたりフットワークで回り込んだりできるがその余裕すらない。
激痛に耐えられず動けずガードを固めたままで思っていたのは
「この痛みどうにかならないのか?こんな激痛じゃパンチなんか打てない。右が打てなければ勝てない。レフェリー早く試合をストップしてくれ」だった。
10秒ほど打たれ続けただろうか。
ガードしているし相手のパンチも大したことはないのでほとんどダメージはなかったが打たれ続ける私に見かねたレフェリーが試合をストップした。
「やっと止めてくれた」と思い拳は激痛だがホッとしている自分がいた。
私は試合を投げてしまった。
だがこれは大問題。
逃げに逃げてどうしようもなくなったクズ野郎が人生逆転を賭けてやっとたどり着いたプロボクシングのリング。
そんな藁にもすがる思い出リングからも逃げ出してしまったのだから。
続く
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